5ちゃんねるの書き込みを見ると、清水気功はスピビジネスであり、過去を振り返る時、あまり変わっておらず、豊かにもなっておらず、清水気功を習って実践してみたが、満足いく結果を得られなかった。という意見が散見でき、大言壮語していた清水先生自身も病気で死にかけて療養中だし大したことないと。
清水先生は、願いが叶わない理由を、こう説明されています。
気功とは今効果は無いんだ。日一日と薄紙を一枚一枚積み重ねていく行為を功という。
功が蓄積され未来が変わるんだ。今の無駄の積み重ねが未来を変える。
役に立つことを捨て、宇宙に存在する情報とエネルギーに満ちた玄(げん)という理法の扉を探して歩むことを道(タオ)という。評価を測ると役に立つことに傾き、玄から遠ざかるので評価をせずに淡々と無駄を継続する。
一見すると、意味不明で言い訳にしか聞こえませんよね。
でもこういうことです、人は過去の行為の結果の自己評価の低さで苦しみ、成功するには、どういう行為(doing)をすれば良いかと悩む。すると「何もしない」ことが悪徳になってしまう。役に立たない無駄な事は悪。負け組認定される。役立たずは社会のゴミ。
しかし、宇宙で一番最高の力を得るためには、「行為をする我」を一旦捨てないといけない。
「何もしない」こと「無我」を選択する必要がある。般若心経の智慧プラジューニァーパーラミター。一切の苦しみと災いから逃れられる般若の知恵。宇宙の生成発展の大いなる流れである道(タオ)の扉を開くには、一旦、役には立つが濁っている分流のドブ川を利用することを捨てて、道(タオ)という清らかな源流に戻る必要がある。
「何もしない」こと「無我」を選択する必要がある。般若心経の智慧プラジューニァーパーラミター。一切の苦しみと災いから逃れられる般若の知恵。宇宙の生成発展の大いなる流れである道(タオ)の扉を開くには、一旦、役には立つが濁っている分流のドブ川を利用することを捨てて、道(タオ)という清らかな源流に戻る必要がある。
霧に覆われた崖っぷちでの軽挙妄動は命取りになる。崖っぷちから離脱するには悩みという濃い霧が晴れるまで待たなくてはならない。道(タオ)には正しいルートがあり、正しいルートを得るためには、現状で役に立つことを捨て、悩むことを止めて、何もしない事を選択する必要がある。
役に立つ事とは、全部、自分の都合で有り、その価値観では宇宙には従うべき生成発展の理法があると認識できない。道(タオ)に通じる扉を老子は玄牝の門といい現世に下りてくると徳という力になるという。西洋で愛という情は、東洋では仁徳といい、平行線をたどる2本の線が、お祈りにより何時か交わり交点になるのではないかと、希望を捨てずに持ち続ける夢見の能力。「この世界は優しくステキなところ」という価値観。
役立つ行為をしようと軽挙妄動の行為を一時的に辞め「何もしない」を選択する時、全てを守り育て生成発展する宇宙の大道の流れに乗る正しい道がある。損得を判断、評価する我を停止する無我。無欲。
価値観⇒ 「この宇宙には、すべてを守り育て生成発展させる理法がある」
選択⇒ 「気功の練習をする時だけ、一時的に役に立つ事、行為をすべて止める」
日の丸理論の赤丸である我を小さくすることで白地の世界を大きくする。
我を小さくしていき無欲になると徳の力が集まり、現世に必要な力が集まるという矛盾が生じる。
評価、効果を求めるという「欠け」というマイナスが、マイナスを引き寄せるという引き寄せの法則
が停止することで、悩みという霧が晴れていく。気功は何もしない事で徳の力を集める練習。
最初のスタートは願望という欲。「満たされていない欠け」から始まり、マイナスである「欠け」を
認識したら、プラスの引き寄せにするために「欠け」を、役立つ行為、努力の停止により「希望」に変換する。そのために一番、大切で望む事を一旦捨て去る。大切なものを求め頑張ることがアナタを苦しめている。
故に、「困っている時は、何もしない」で、落ち着くのを待つ。
西郷隆盛は、自分事の都合を捨て天下の大事を成した人を評して「命もいらん、名もいらん、官位も金も要らない人物は始末に困る」と。それには、無理をせず楽にやること。一生懸命にやらず、拘らず評価せず、失意の時でも諦めず、ただ淡々と継続するのみ。
気功とは、目に見えない気を感じながら、何かを想像しながらする体操であり瞑想。
その無為の行為の継続が「ただ生きて、ここに存在するだけでいい」という肉体に属する生命感を際立たせ、それが価値観のチューニングになり、「欠け」を「希望」に変える。
過去を振り返った時、清水気功を実践しても豊かにもならず、満足出来ていないという感想は正直ではあるけれど、願望を「欠け」と認識するとき、3パータンがあるということをスルーしている。なぜなら、この感想は、自己の努力が無駄になったという行為の成果を評価するという地雷を踏んでいる。
「ただ生きて、ここに存在する。生命は存在するだけで尊い」という肉体に属する生命観がすっぽりと抜け落ちている。で、願望である「欠け」には、3パターンがあります。
「ただ生きて、ここに存在する。生命は存在するだけで尊い」という肉体に属する生命観がすっぽりと抜け落ちている。で、願望である「欠け」には、3パターンがあります。
・やりたい事⇒ 未来。夢や希望。
・やるべき事⇒ 過去。義務・義理。ルール。果たすべき課題。
・出来る事・やれる事⇒ 現在。自己評価。セルフイメージ。
願望リストの優先順位とは、頑張り努力して求めても得られずに苦しめられている事のストレスの大きい順位でもあります。
これは、メンタル体、アストラル体、エーテル体、上丹田、中丹田、下丹田に分類されます。
つまり、それぞれ共鳴共振するチャクラの価値観が異なる。
未来を開く上丹田。過去をリセットでき義理を果たせるハートチャクラ。現世御利益、行動力の下丹田。3つ全てがOKにならないとゴールの扉は開かない。
困っている状態とは、どれか一つ、あるいは3つ全部がダメな状態であり、落ち着くまで「何もしない事」で、軽挙妄動を辞めて必要な価値観にチューニングできる状態まで待つ。
背景理論の理屈は小難しいですが、実技だとシンプルです。シンプル過ぎる故に技を成立させる背景理論を忘れがちになります。
Egボールを作る時、百会の「この世界には現実を良くする不思議な力がある」という価値観があり、
Egボールに、困ったことを入れる時、ハートチャクラの「この世界はEgで何とかなる甘いところ」という価値観があり、Egボールを黄金色に輝かせ可能性を増やす時、下丹田の「だから何か良い事がありそうだ」という価値観がある。この3つの背景で身口意の三密加持を行うから願いが叶う。
これは信じる信じないではなく、落語でセンスをソバをすする箸に見立てるような修法の効果を成立させる見立て作業とその背景設定。過去を振り返って行為を評価をせずとも、清水気功やってみたけど効果が出ず満足できてない。という感想で良い。効果を評価せず有るか無いかだけ。
目を開けて現実が変わっていないから、スタートに戻ってゴールを妄想して祈る。繰り返すことで、
スタートとゴールが一点で重なりサーキットになって閉じたループ状態を小周天システムという。
閉じられない願いは、Egが彼方に放出してしまい充電されない。過去、現在、未来を今ここでループで閉じると自家発電が始まり現実を変えるEgが充電され始める。
望まなくても奇跡が訪れるのは百会の感謝、信仰の道であり、効果が有る無いに関係なく、日常が喜びの連続だから、夢や希望が無くても有難いなと感謝する日々で生きていられる。人としては超一流だけれど、意図して行うと特定の宗教の信仰になり、それは清水気功が要求する道ではありません。