清水気功を学ぶ上で山崎弁栄さんの光明主義を参考にさせて頂いているので、
山崎弁栄さんが内証によって感得した如来の四大智慧のメモをシェアします。
自習用にメモったものなのでニュアンスや情報の正確性に欠けると思いますが、
解説や修正を加える程、難解になると思うのでメモのままコピペします。
浄土宗光明主義の山崎弁栄さんの説く如来の四大智慧は一般論と異なり、内証により裏打ちされた内容を異にする新解釈の四大智慧であり、光明主義の光明念仏は、如来の四つの智慧を円満に啓いて目覚めていくのが念仏三昧であると定義しました。
山崎弁栄さんの宗派と四大智慧の分類では、
平等性智を修行のメインにした禅宗。
大円鏡智を修行のメインにした天台宗。
妙観察智を修行のメインにした真言宗。
成所作智を修行のメインにした浄土宗。
・転識得智・・・円成実性。迷い(識)からサトリ(智)への転換。
下座達観し、敵対する人にも、足元の雑草にも、良い部分を見出し敬い師として全てのモノを生かすことに悦びを覚える。
・八識の転識得智による四大智慧。
・前五識=眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚)の般若波羅密多の行(光明念仏・念仏三昧)による転識得智が「成所作智(じょうしょさち)」
知覚する器官が浄化され気が混じり五感を通しての世界との交感融合。感性霊化する時、清浄国土妙色荘厳を観察するに至る。極楽浄土とは如来作智に霊化された心象に生じる現象。
山崎弁栄さんは、下駄で歩きながら米粒に念仏称号、仏画、お経を描き、達筆の仏画を描き、またはお経を細字で書いて線の様にして仏画を描き、筆を両手と口に咥え、それぞれ違う言葉を書くなど、超絶技巧を発揮すると共に、念仏を唱えていると信者たちの病が治ったり、トイレ中に周囲の壁が消えて浄土を見るなどといった成所作智と思われるエピソードがある。
・第六識 意識(おもう)・・・転識得智が「妙観察智(みょうかんさっち)」
二つの両性が交感結合して新しい生命が誕生する。我と仏が融合する入我我入。
山崎弁栄さんは以心伝心で相手の思いをテレパシーの様に見抜き、遠方の信者の自殺を予見して分身を飛ばして自殺を未然に防いだり、最終便のバスに乗り遅れる事を心配する学生の心情と最終便のバスの遅延を予見した妙観察智と思われるエピソードがある。
・第七識 末那識(まなしき)自我意識・・・転識得智が「平等性智(びょうどうしょうち)」
原子モデルにおいて、光子は何も無い空間にも満ちており、多様性に満ちている物質ですら光子を閉じ込めた原子で構成されており、物質は重力によって光が閉じ込められたものに過ぎない。山崎弁栄さんは、仏教の全宗派・キリスト教の真髄に精通し、古今東西の哲学をも抱合し、矛盾する一神教と多神教をも融合させ仏教・キリスト教の概念を超え欠けが無く統一された世界宗教ともいえる光明主義を提唱した。
・第八識 阿頼耶識(あらやしき)深層意識・・・転識得智が「大円鏡智(だいえんきょうち)」
森羅万象のすべて、宇宙が心の中に見え、見るだけでそのモノの概念を認識する観念。
山崎弁栄さんは、近くに行かないと見えない草むらのアリの群れを遠方から察知したり、未だ姿見えぬ来客を予見し、肉眼では小さすぎて読めぬ遠方の時刻表を読み、川に沈む溺死体を予見し、井戸で殺された成仏出来ぬ人の霊の存在を感知し念仏を唱えたなど大円鏡智と思われるエピソードがある。
この超能力は、音霊法で得られるとされる。
山崎弁栄さんは、法然さんのラディカルさを完成させた多様性のパイオニア的存在であり、一見すると地味で、親鸞さん、歎異抄を世に広めた正統派の浄土真宗の清沢満之さんに知名度的に劣る感が否めませんが、強烈さ、面白さは法然さん、山崎弁栄さんですね。
多様性と言えば、あのちゃんと木下百花さんは、筋を通しつつ常に想定を超えてきて嬉しくなって、笑いを堪えられず、ハマっています。近年に無い衝撃を受けた2人です。多様性を異分子と排他的にならず、受け入れられる世界はステキですな。
追記
山崎弁栄さんが体系化した12光を何度も読むと、清水気功の肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体それぞれの上中下の丹田に対応しているように感じます。悪心を消す道徳面に作用する無碍光などは法然セミナーで説かれた法然さんの伝法伝授と同質と捉えるとメンタル体の上丹田の光化による浄化と解釈できますし、入我我入に関する歓喜光などはメンタル体の百会(上丹田)の光化による浄化という解釈で符合します。そう考えて行くと念仏三昧で般若波羅密多の行を行い法華経を経て法然の還相回向を生きたまま現世で行うという、それこそキリスト教のキリストの肉体を持っての再臨により死者が生き返り最後の審判で天国行きと無間地獄行きに裁かれるという神の許しによる救いをも生きたまま現世で行い最後の審判までお墓の中で数十億年もの長き眠りについて再臨したキリストに審判されるのを待つという未来に先送りされた救いの過程を省略して、死者復活を前提に死体を土葬することで保存して死を徹底的に拒絶するのではなく、肉体の死と共に霊化された精神がそのまま天国に移行するだけの「生き通し」という生きている現世で来世での救いが完結するという救いが生まれるというラディカルさがあり、仏教のカテゴリを超えて宗教哲学的に極め尽くしているように思えます。系統を継いだ笹本戒浄さん、山本空外さんといい弥陀の光明を受けた傑僧を輩出してるのを見ると団体としては大きくないけれども、逆に、表面的には浄土宗の特色であり団体としては大きくなれないのかもしれない。清水気功を体験するまでは奇抜さで集客する怪しいスピビジだと蔑視していた部類なので縁が無いと興味も持てないものですね。